直桜は化野が運転する車の助手席に座っていた。
必死に懇願する化野を無碍にできなかったというのもあるが。
ちらり、と化野の左腕を窺い見る。
隠しきれない邪魅が纏わり憑いていた。
(一昨日、祓ったばかりなのに、何でこんなに憑いてんだ。そもそもコイツ、鬼だろうに)
化野の墓守は、平安の昔、陰陽師によって捕らえられ朝廷に仕えることを余儀なくされた鬼の一族だ。
縛りを持つ代わりに強い力を許された上、死という穢れの中に身を置いていた一族だけに、邪魅には耐性があるはずだ。
邪魅を操ることはあっても、蝕まれることなど本来ならないはずなのだ。
(会った時から微妙に違和感はあったけど、なんか隠してそうだな。話してくれれば、全部祓ってやれるのに)
そこまで考えて、我に返った。
まだ二回しか会っていない男のために、そこまでしてやる義理はない。惟神の力を使うことだって、本当なら望まない。
「突然付き合わせて、すみません」
直桜の視線を感じ取ったのか、化野が気まずそうな声で謝罪した。
「別にいいけど。この車って、どこに向かってんの?」
直桜の問いかけに、化野がわかり易く黙った。
「アンタの清祓なら引き受けるけど、仕事は手伝わないよ」
「承知しています」
直桜には視線すら向けずに、化野はまっすぐ前を向いて車を走らせる。
「……瀬田くんは、13課に関わるのは、やっぱり嫌ですか?」
ぽつり、と化野が呟くような問いを投げた。
「嫌だよ。ていうか、怪異に関わるのも惟神の力を使うのも嫌だ。俺は何もない、普通の人間として生きたいんだよ」
ふい、と窓の外に顔を背ける。
不貞腐れた自分の顔が窓に映って、我ながらガキ臭いと思った。
「普通、ですか。では何故、私の清祓を申し出てくれたんですか? 惟神の力は使いたくないんですよね?」
直桜は、答えに窮した。そんなこと、自分でもよくわからない。
ただ、あのまま化野との縁が切れてしまうのは嫌だと、少しだけ思った気がする。気がするが、そのまま言葉にする気にはなれない。
「私が、墓守の鬼の一族であると、気が付いていますよね」
「ん、まぁ、何となくは」
話の向きが変わって、直桜は正面を向いた。
車は街中を通り過ぎ、人気がない場所に向かって走り続けている。
「私は生まれた時から、普通じゃない人間でした。普通じゃない人間が普通の輪の中で生きるのは息苦しい。瀬田くんも似たような境遇だったんじゃないかと思います。惟神の修行も、最近までちゃんと熟していたんじゃないですか?」
ちらりと視線を向けられて、思わず目を逸らした。
「だったらなんだよ。仕方ないだろ。地元にいたら拒否権なんかないんだよ」
桜谷集落の、惟神の家系に生まれてしまったら、そう生きるしかない。
その身に神を降ろすための修行と称した暴力も、奉仕と呼ばれる神社への強制労働も、当然のように流れる
「そうですね。一族の血筋も役割も、望もうが望むまいが本人の意志に関係なく背負う羽目になる。生まれながらに持つ業です。己の出自を何度、呪ったか知れません」
本当に、そう思う。
自分が生まれた家を、土地を、何度呪ったか知れない。
滋賀を離れて関東の大学に通う許可を得られたのは、直桜にとってやっと手に入れた自由だった。
「じゃぁ、なんで化野は、こんな仕事してんだよ。嫌だったんだろ」
同じような境遇で同じように苦しんでいた人間が、この道を選んだ動機には、興味があった。
「なんてことはない、諦めたからですよ。私は、普通に生きることを諦めた。それでも、悪いことばかりでは、ありませんでしたよ。結果的に私にとって、13課は救いになりました。あの場所には、普通じゃない人間しかいませんから」
化野が小さく笑う。
その横顔は心なしか綻んでいるように見えた。
「だから俺にも、13課に来いって言いたいわけ?」
「いいえ、違います。私にとって、今ではこの生活が普通になりました。でも、瀬田くんが望む普通は違うんでしょ? だったらもっと、抗うべきです」
化野が急ハンドルを切った。
車体が大きく横に触れる。体が外側に持っていかれて、思わずシートベルトを握り締めた。
山道の細い横道を猛スピードで登っていく。
「何だよ、急に! 危ないだろ……」
サイドミラーに小さく映る後ろの車が、大きく切り返して追ってくるのが見えた。
「君が面接に来たのが13課に洩れました。恐らくネットの求人広告をタップした時点で、瀬田くんの神気の残滓を気取られていたんでしょう。力及ばず、申し訳ない」
化野がアクセルを踏み込む。
道なき道をぐんぐん上っていく。
「あの後ろから追ってくる車、13課の人間ってことかよ」
化野が頷いて、ハンドルを切る。
更に細い徒道を抜けて、広い山道に出た。
(見た目によらず運転荒いな。焦ってんのか?)
「13課の人間より早く君の身柄を保護する必要があった。だから、履歴書に書かれていた大学まで探しに行きました。個人情報を乱用して、申し訳ありません」
なるほどな、と思った。
スマホなどの電子機器には霊力の類が溜まりやすいし流れやすい。だからさっきも、電話をかけずに大学までわざわざ直桜を捜しに来たのだろう。
直桜の清祓を受けている化野なら近付けば神気を辿れる。
化野の表情が最初から逼迫していた理由が分かった。
しかし、釈然としない。
「それは良いけど。なんでアンタが俺のために、ここまでしてくれるわけ? バイト蹴ったんだから、放置しておけば良かっただろ」
「放置なんて、できませんよ」
化野の手が直桜の腕を掴んだ。
「初めて会った私に、使いたくない清祓術を行使してくれた。君の善意に報いる義務が、私にはあります」
「善意なんて大層なもんじゃ……っ」
化野の腕を掴む力が強くなる。
「結界の中に入ります。頭を低くして、体を丸めていてください」
正面に目を向ける。木々の中に明らかに異質な丸い|門《ゲート》が開いている。
車体が浮いて、門の中に吸い込まれた。
直桜の匂いが充満する部屋の中で、護は愛しい恋人の両腕を拘束しながら見下ろしていた。 自分に可愛い悪戯を仕掛けてきた意図は、知れている。 似たような話を梛木から既にされていたからだ。『鬼神が守るべき誓いは三つじゃ。惟神に他者の死の穢れを浴びせるな。直桜の血を奪われるな。直桜がもし、我を忘れて暴走したら直桜ごと枉津日神を殺せ。神殺しの鬼の手であれば、人である直桜自身は死なぬ。案ずるな』 聞いた直後は驚愕したし、受け入れられなかった。(鬼神が惟神を殺す、それ自体が神事なのだろうか? 本当に、直桜を殺さずに禍津日神《荒魂》だけを封印できるのか?) 直桜の悲壮な表情を垣間見て、一抹の不安が過った。(もし違っていたら、俺が本当に直桜を殺してしまうかもしれない。それでも、直桜がそれを望むなら、信じるしかない) もし本当に直桜が死んでしまったらと考えると、反魂香を使う人間の気持ちがわかるなと思う。(せめて今くらいは、俺の直桜で、俺に抱かれていて欲しい) 何も考えずに、ただ同じ快楽を貪るだけの獣でいい。 護はベッドの上に置きっぱなしにしていた手枷を取った。直桜の手を頭の上に持ち挙げて、手枷をかける。「久しぶりに使いましょうか。この前も悦さそうだったし、直桜、手枷好きですよね?」 耳を舐めながら囁く。 さっき達したばかりの体は、敏感に背中から脈打った。「好き、だけど、後ろは、嫌だ」 後ろ手にすると抱き付けないから嫌だと言われたことを思い出す。 そんな発言も可愛らしくて愛おしい。「大丈夫、今日はちゃんと前にしますよ」 そう言いながらも、頭の上でかけた手枷をそのままベッドの上に固定する。「まもる、これじゃ、腕、うごかせなっ……ぁっ」 服を捲って、芯を持った突起を吸い上げる。 緩い刺激で焦らされた肌は簡単に快楽を跳ね上げる。舌で舐め挙げ、反対側を指で強めに摘まむと、背中が大きく反った。「乳首まで敏感。こっちも、一回イっ
忍たちと最終的な打ち合わせを行い、警察庁を出た頃には外は既に暗かった。 律が送るというのを断って、護の運転で岩槻の自宅まで車で帰ってきた。久々に戻った事務所は、大して長くも住んでいないのに、懐かしささえ覚えた。「やっと帰ってきたって感じですね」 護の腕が伸びてきて、直桜を抱き寄せた。「二週間も直桜に触れられないのは、拷問でした」「ん……、俺も」 言いかけた言葉を飲み込む。 代わりに護の匂いを思いっきり吸い込んだ。 唇を指がなぞって、舌が誘うように舐め挙げる。無意識に口付けを受け入れて、口内が犯される。「んっ……、ふ……」 久しぶりの刺激が甘くて、声が否応なしに洩れる。(やばい、このままだと、流される) 名残惜しい唇を押しのけて、体を離した。「とりあえず、シャワー、浴びよ。俺、汗だくだから」「そうですね。今日は久しぶりに二人でゆっくり過ごしたいですし」 残念そうにしながらも、護が納得してくれた。 申し訳ない気持ちを抱きながらも、直桜は護を風呂に押し込んだ。〇●〇●〇「訓練、お疲れさまでした」 互いにシャワーを浴びてすっきりしたところで、乾杯する。 とはいえ、酒が入ると記憶が飛んでしまう直桜はノンアルコールで我慢する。「護、なんで眼鏡しているの? 視力、回復したんだよね?」 護は今現在も鬼の常態化を維持している。完全なる鬼化とは異なり、鬼の力を右手だけに集中する方法なのだという。その副産物として視力が戻り、体躯が少しだけ大きくなっている。「伊達眼鏡ですよ。その、眼鏡をかけていたほうが、直桜は見慣れているでしょうから」「眼鏡かけてる方が、俺の好みだからってこと?」 護の顔が赤らんでいるのは、酒のせいではなさそうだ。 直桜は息を吸い、静かに吐き出した。 立ち上がって
剣人の手を握ってみて、呪具である刀そのものに憑りつかれているのだとすぐに分かった。(でも、不思議だ。白雪も健人も、刀に守られている? いや、まるで刀が相棒みたいに、二人に悪さしてない。これってやっぱり) 忍に視線を送る。 白雪の時と同じように頷いて、微笑まれた。(忍は13課の仲間を、すごく大事にしてるんだな。自分で自分を守れる強さを教えているんだ) 怪異に関わる以上、他者に守ってもらうだけでは限界がある。結局のところ、自分を一番に守れるのは自分だ。 そのためには自分が強くならねばならない。忍が直桜に施した訓練もそういう類のものだった。 改めて忍の優しさを垣間見た気分だった。「そろそろ飯にせんかのぅ。腹が減った。化野も、いい加減に回復したじゃろ」 梛木がサラダを食みながら声を掛けた。「もう食べてるだろ。神様ってご飯食べなくても平気なはずだけど」 呆れながら、席に着く。「惟神の神と違うて、質量のある顕現は疲労がたまる。神でも腹は減る」 梛木が卵焼きを頬張って至福の顔をした。 食事を始めながら、直桜は先ほど剣人が呟いた名前が気になっていた。「ねぇ、さっき剣人が話していた紗月って、どんな人? 13課の人?」 陽人からもあまり聞いたことがない名前だ。 不意に視線を感じて、剣人を振り返る。感動した顔で、直桜を見詰めいている。「あ、ごめん。呼び捨て、早かった? 白雪が白雪だから、つい」 言い訳すると、剣人がぶんぶんと首を振った。「いいです、そのま
一通り食事の支度が済んだ頃、十二階から護たちが降りてきた。「何じゃ、過ごしやすそうな部屋じゃのぅ。こんな場所で訓練しておったのか?」 梛木が部屋の中を見回しながら呆れ顔をしている。 直桜はむしろ、その後ろを疲れた顔で付いて来た護の姿の方が気になった。ジャージ姿で髪を降ろしたまま眼鏡も掛けずに項垂れている。 その肩には枉津日神が乗っていた。よく見ると、護の後ろに直日神がいる。神力で支えてやっているようだった。「体を大きく使う激しい訓練ではないからな。そういう時は空間を変えていたが、基本はこの部屋だ」 梛木と話し始めた忍を通り越して、護に駆け寄る。「護、大丈夫? 梛木に酷い目に遭った?」「失礼な言い草じゃな。必要な訓練を施したにすぎぬ。軟弱な鬼よのぅ」 梛木の言葉には耳を貸さずに護の腕を取る。何となく、いつもより目線の位置が高く感じる。「大丈夫ですよ。ちょっと疲れただけです。神倉さんは、神様というか、私より鬼ですね」 護が疲弊した顔で笑って見せる。「眼鏡なくて見えるの? てか身長、高くなってない?」 一見しては普段の護だが、心なしか体付きも大きくなっている気がする。 梛木が得意げに腕を組んだ。「鬼の常態化じゃ。完全なる鬼化とは別に、平素から鬼の力を自在に使う訓練を施した。化野は元の体付きが華奢だからの。これくらいでちょうど良かろう」「鬼化すると視力が良くなるので眼鏡も必要ありませんし、便利なことも多いですよ」 ははは、と笑う護の顔に覇気がない。 相当に大変な訓練だったと想像できた。「大丈夫だ、直桜。吾の神力
二週間と伝えられていた訓練期間はあっという間に過ぎて、気が付けば九月になっていた。 警察庁の地下十三階に籠りっきりでいると、時間も日付の感覚も鈍ってくる。 キッチンに立って食事の支度をしている忍の姿と体感的に、今は恐らく朝なんだろう。テーブルに頬杖をついて、朝食を作ってくれる忍の背中を、直桜はぼんやりと眺めていた。「調子はどうだ? 仕上がりは悪くないと思うが。体の変化に脳は順応しているか?」 コーヒーを差し出されて、受け取りながら頷く。「多分、大丈夫。思ったより馴染んでる。直日の神気も前より扱いやすくなったよ」「直桜と直日神の魂は、ほとんど融合している。直日神の神気は直桜の霊力そのものだ。今なら直日神が本気で神力を使っても直桜の体が壊れることはないだろう」 直桜の頭に手を置いて、忍が微かに笑んだ。 その顔を呆けて見上げる。(もっと早くに俺が本気でこの訓練をしていたら、もっと何かが違っていたのかな) 少なくとも十年前の呪詛事件に槐が関わることはなかったのかもしれない。未玖だって、呪詛にならずに済んだのかもしれない。 忍の手が直桜の頭を鷲掴みにした。「今だからこそ、成し得た。今の直桜でなければ、本気で俺の訓練を受ける気にはならなかっただろう。タイミングは大事だ。もしもの話を考えすぎるな」 手を離してキッチンに戻っていく忍の後姿を気まずい顔で見送る。(また考えを読まれた。あんなの、心を読んでるのと同じだ) 長く生きていると表情を見ただけで何を考えているかわかるものなのだろうか。自分がそれだけわかり易いのかと思うと、複雑な気持ちになる。「今の直桜だから出来ることも多い。十年前の、体が出来上がる前の幼い直桜では禍津
直桜と別れて12階に残った護は、不安を抱えていた。 小脇に抱えた犬のぬいぐるみの中に在る枉津日神と直日神に挟まれて、神倉梛木が目の前に立っている。(神様の密度が高すぎる。皆、高位の神すぎる) 全く落ち着かない。 オフィスのフロアのような空間の真ん中にある長椅子を梛木が指さす。その指をすぃと下に向けた。 座れという指示だろうと思い、素直に腰掛ける。隣に並んで直日神がちょこんと座った。護の手から離れた枉津日神も、反対側の隣に腰掛けたので、またもや挟まれた。「久しいのぅ、直日。この間は姿を見せもせんかったが。直桜と離れれば、顕現せざるを得ぬか」 ニタリと笑んで、梛木が直日神を見下す。「この間は必要ないと思うたのだ。だが、何やら不穏な気配を感じ取ったのでな。何より今日は、護にこの姿を覚えさせたかった」 直日神が隣に座る護に目配せする。 どう返事してよいかわからずに、軽く会釈をした。(髪が長くて声も優しいし中性的だが、顔立ちはどこか直桜に似ている。直桜をもっと大人にしたような) 直桜の姿で話したことが一度だけあるが、顕現した姿を見るのは初めてだ。「どうした? 吾の姿に見惚れたか?」 言い当てられて、顔が熱くなる。 咄嗟に目を逸らしたら、犬の枉津日神と目が合った。 可愛らしいぬいぐるみ姿が、今は癒しだなと思う。「なんだ、化野は直日と既に話しておったか」「以前に直桜の姿で一度だけです。姿を拝見するのは初めてですよ」「珍しいのぅ。滅多に人と話さぬ直日が、自分から話しかけたのか?」 枉津日神が護の足に手を掛けて前にのめる。